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ありのままを 書き下ろし
埼玉県・圓光寺副住職 小林秀嶽 
 1月10日は、臨済忌(りんざいき)。臨済宗の宗祖臨済義玄(ぎげん)禅師の命日です。臨済禅師は、中国の首都北京から南西に約400キロほどのところの臨済寺に眠っています。
 昨年の10月のこと、私は霊雲院(れいうんいん)住職則竹秀南(のりたけしゅうなん)老大師のお供をさせていただき、臨済寺における日中合同報恩接心(せっしん)に参加してきました。
 接心支度のため、私は老大師一行よりも一足さきに臨済寺に行くことになったのです。当日、朝から中国側の僧侶と打合せをし、一行が 来られるのを待っていたのです。はるばる日本から坐禅をしにやってくるということもあり、臨済寺の近くに住む人々も大勢、いまかいまかと門の外で待っていたのですが、時間がすぎても一向に 来られる気配がありません。時間はどんどん過ぎていく中、どうしたのだろうと電話をしてみると、濃霧のためにバスが高速道路で立ち往生してしまい大幅に遅れそうだということだったのです。待ちきれない思いで時計ばかりを見ていたのですが、ふとまわりを見ると歓迎のために集まっている人たちは意外とあっけらかんとしています。「霧でバスが動かないのならしょうがない。また、時間になったら来てみよう」と笑いながら戻っていったのです。その姿をみたとき、臨済禅師の「道流(どうる)、仏法は用功(ゆうこう)の処無し。祗だ是れ平常(びょうじょう)無事(ぶじ)」という言葉が頭に浮かびました。仏法というものはとくに努力するべきものではない。一つの目的を持って努力していくのは目的地に達していないからだ。目的地へ達したら、もうどこへも行くところがないはずである。当たり前でいい。ありのままでいい。
 「霧ならば…」と何事もなかったように戻っていく人たちの背をみながら、ありのままを受け入れることができない自分に気づいたのです。霧でどうにもならないのに、それでも早く来てほしいという葛藤が渦まいていました。
 暮らしの中で、思い通りにならないことは数多くあります。その度に、立ち止まり、霧の中に彷徨(さまよ)ってしまうのが私たちかもしれません。そのような時、とらわれることなく歩みを進めていくことが大切です。
 日々訪れる出来事すべてが当たり前であり、そのままを受け入れていくということがこの上ないこと。宗祖、臨済禅師の眠る地で、あらためて感じたものでした。
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