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とらわれない心 書き下ろし
東京都・梅洞寺副住職 富岡 孝宗 
 幸せに暮らしていたムカデに、ある日カエルが尋ねました。「どの足をどういう順番に動かしているの?」するとムカデは、自分の足の運びが気になってしまい、とうとう足がもつれて歩けなくなってしまいました。
 こんな話があります。なるほどムカデは「百足」と書くように、たくさんの足を器用に動かしながら歩いています。けれども一本一本の足を意識していては華麗に歩くことはできないに違いありません。 ではさらに、百本を千本に増やして考えてみましょう。沢庵宗彭(たく あんそうほう)禅師は千手観音(せんじゅかんのん)について次のように述べています。

千手観音は手が千本あるが、もし弓を持っている一つの手に心が止まってしまえば、九百九十九の手は役に立たないだろう。一つの所に心を止めないから、千本の手が皆用をなすのである。 『不動智神妙録』

 心が何かに止まってしまったら、身も心も上手く動かなくなってしまうのですね。手足が百も千もないけれども、私たちは己の小さな日常のことをとらわれなく行じているでしょうか?仕事をする、家事をする、家族と接する、隣人と接する、顧みれば無心になれていない自分に気付きます。ムカデが歩くような当たり前のことを淡々とこなせることが何より大切なことなのです。しかし我々凡夫にとってそれは簡単なことではありません。
 同じく沢庵宗彭禅師は無心無念になりきるまでを兵法にたとえて説明しました。

初めは刀の構えも何も知らぬがゆえに、相手が打ってきても心が止まらない。しかし刀の振り方や留意点などを習っていくと、あれこれ心が止まるようになり不自由になる。長い年月さらに稽古を重ねていけば、構えも振り方もとらわれがなくなって、初めの無心に立ち返るものだ。

 掃除やお経など日課作法を教わり、正しく毎日ひたすら行じていく中で、自然と身体が動くようになっていった僧堂生活を思い出します。慣れないと余計な頭を使って考え過ぎてしまいます。また、意味があるのかとあれこれ悩むこともありました。誰だって同じような毎日を繰り返していくことには悩みが伴います。けれども、その反復の大切さを改めて感じて欲しいと思います。

仏法、日用を離れず。
日用中、全体現成す。  大覚禅師

 目の前にある自分のすべきこと、当たり前のことをもう一度顧みて、とらわれなく行じていける自由な心をコツコツと養っていきたいものです。そんな小さな日常の中に仏法はあるのだと信じています。

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